2013年8月26日月曜日

人迎脈口診

 『東洋医学概論』p.117~118に次のようにある。

 「比較脈診とは,拍動部位を異にする脈を,相互に比較して,臓腑・経絡の異常を診る方法である。脈状診が,どちらかといえば,病人や,病気の状態を診ることに重点が置かれるのにたいし,比較脈診は,臓腑・経絡の異常を診断することに重点が置かれている。(*1) 代表的な比較脈診には,『素問』に書かれている三部九候診,『霊枢』に書かれている人迎脈口診,『難経』に書かれている六部定位脈診(*2)の三つがある。」

 「人迎脈口診は,『霊枢』:終始篇,禁服篇にある脈診法で,人迎と寸口,すなわち,頸動脈拍動部と橈骨動脈拍動部を両手で同時に診て,その幅(*3)を比較し(*4),その差の倍率によって異常のある経絡を判定する方法である。」

*1 : いわんとすることが理解できない。どちらも「臓腑・経絡の異常を診る」ことで「病人や,病気の状態を診る」のではないだろうか。
*2 : 『難経』のどこに比較脈診のことが書かれているのだろう。十八難のことをいっているのか。
*3 : 脈の幅を比較するのだろうか。拍動の強さではないのだろうか。
*4 : 経脈篇・禁服篇では人迎と寸口とを比較しているが,終始篇・五色篇では両者を比較するとは言ってない。また躁・大・数・滑・小・緊など脈状についても述べている。
「人迎脈口診とは,人迎と寸口を比較する方法」という説明は一面的ではないだろうか。

9 件のコメント:

神麹斎 さんのコメント...

人迎脈口診は『霊枢』を,三部九候診は『素問』を代表する脈診だなんて,あまりにも浅薄だけど,教科書なんてものは,もともと浅薄なものだから,あきれたりしない,腹も立たない。
『霊枢』の人迎気口診には,比較脈診的な要素が目立つけれど,それは誰かがふと思いついて,でもすぐにコリャダメダとなったものに過ぎない。ほとんど継承者なんて無かったのと違うか。現代の古典研方式にも,『霊枢』風の比較なんて無い。
比較脈診は,「どの」臓腑や経絡の異常かを診断することで,脈状診は,病人や病気の状態が「どんな」であるかを診ること。「どの」をさぐる方法としての比較脈診なんて,ことごとく失敗したんじゃないか
『素問』に書かれている三部九候診を,比較脈診とは思わない。その脈状が異常であれば,その脈処が代表している部位に異常が有ると診るだけのこと。

人迎脈口診とは,人迎で外を,脈口で内を診る脈診法である。
で,当然ながら脈状診です。井上先生の本だって,『脈状診の研究』でしょう。

十駕 さんのコメント...

経脈篇・禁服編の「人迎大×倍于寸口」「人迎反小于寸口」は大・小とあるので,やはり脈の幅(大小)を比較しているのでしょうかね。

神麹斎 さんのコメント...

「脈の幅を比較する」というのは,方便というものじゃないか。
脈の大小は,それはまあ搏動の大小でしょう。言い換えれば,強さのことでもある。
でも,「どうやって強さを比較するのか」となったら,秘訣として,「指にあたる脈の幅を診ろ」というのは有効かも知れない。
強ければ,搏動は大きいだろし,脈幅だって広く感じるだろう。

無考 さんのコメント...

そもそも、「比較脈診」という言葉自体、もともと存在しないものではないですか。
その言葉は、俗語として定着しているが、本来ならば「任意に定めた脉位のそれぞれを比較する診察法を、俗に“比較脈診”と呼んでいる。」ではないでしょうか。

神麹斎 さんのコメント...

「比較脈診」にしろ「脈状診」にしろ,別段,『素問』『霊枢』に載っているわけじゃない。下手すりゃ,教科書編纂の都合でのでっち上げ。
私は,もともと脈診は脈状診しか有り得なくて,脈状診は,病気の状態が「どんな」であるかを診るものだと思っている。しかし,病気が「どこに」在るかを,ある意味で機械的に知りたいという気持ちも分からないではない。そこで,人迎と寸口の脈の大きさを比較して,経脈の陰陽性格の程度から,どの経脈の病気かを割り出そうと工夫した。でも,すぐに無理だと気付いた。だからさびれた。もう一つの,何十呼吸かに一度,脈が途切れるということを根拠に,五蔵のいずれの気に不足を生じたかをいおうという試みには,ほとんど実用化の気配も無い。
現代日本の六部定位脈診は,希有な例だと思う。ただ逆に,これは比較脈診であることがちゃんと認識されているのかどうか疑問に思う。六部のどこが虚しているから,五蔵のどれが虚しているかを判断するわけじゃないと思いますよ。六部に配当された五蔵の五行性の相生相剋の関係から,どこが一番虚している「はず」であるかを割り出しているんです。だから,六部定位脈診は全き比較脈診です。未だに実用されている希有な例です。さて,何時までもつのか。

無考 さんのコメント...

素問』『霊枢』『難経』には、季節あるいは四時の脉について詳しく書かれています。
しかし、比較脈診、六部定位脈診では、あまりそれについては言及しません。
一体、どこへ飛んでいってしまったのでありましょう...。

神麹斎 さんのコメント...

季節や四時の脈は,季節や四時によって脈状が「どんな」になるかを言おうとしているわけ。人迎気口診とか六部定位脈診とかは比較脈診で,どちらが大きいとか実しているとかによって「どこに」に問題が在るかを言いたいわけ。もともと別物だから,どこかへ飛んでいったわけじゃない。

無考 さんのコメント...

そうなると、五蔵のどこが虚している、実しているということ自体を、比較して見つけることのほうが、難しく思えてなりません。

神麹斎 さんのコメント...

五蔵のうちのどれが実し,どれが虚しているということを,脈診で知るというのは困難です。だから,今までの試みはいずれも失敗に終わった。つまり,比較脈診というのは幻想である。
現在,六部定位診をやっている人は,それでできるという。できない,あるいは苦手なものは,本当にできるの?という。
できるという先生も,実は最も実しているのを見つけて,それと相剋をなすところに虚はあるはずだとおっしゃってました。虚しているものより,実しているもののほうが見つけやすい。

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