2012年8月19日日曜日

上古天真論の続き

前回の『校注語訳』上古天真論の篇首の文章について,もう一くさり。唐代には道家が崇奉されたので,王冰としても,少なくとも詔令に従う態度を装う必要は有って,『大戴記・五帝徳篇』の成語を取って,黄帝に対して最上級の粉飾を施したんだと言われてます。そして,「実際上この二十四字は医学の理論となんら関係が無いから,訳注を加えることもしない」とまで。次の「廼問於天師曰」にだって,何だか重々しく書き換えた気配は有るけれど,そこまでしつこくは言ってない。
で,上古の人と,今時の人の寿命に大差が有るのは,ご時世が違うのか,それとも人々が勝手なことをする報いなのかと問うている。勿論,とるべき生活態度というものが有って,それに従わないからいけないんだ,自分の責任なんだ,でなければ,医術はおろか養生法にもならない。
そこで,歧伯の話す,上古の人はこうだった,今時の人はこんなだ,という話で,取るべき生活態度が示される。
上古之人,其知道者,法於陰陽,和於術數,食飲有節,起居有常,不妄作勞。故能形與神俱,而盡終其天年,度百歳乃去。
今時之人不然也,以酒爲漿,以妄爲常,醉以入房,以欲竭其精,以耗散其眞,不知持滿,不時御神,務快其心,逆於生樂,起居無節,故半百而衰也。
どうです。なんだか対になりそうでしょう。こういうのは,つきあわせて考えると良い。「飲食に節度が有る」と「酒をもって漿と為す≒普段の飲み物とする」(呑兵衛には耳が痛い),「起居に常が有る」と「起居に節が無い」などなど。そんなことでは,百歳を越えて大往生できるか,五十歳そこそこで尽きるか,違いの有るのが当たり前でしょう,と言うわけ。文章の構造が分かれば,辞書を引いて理解を確かにすることも出来る。そもそも,変だな思うようなところには,ちゃんと郭教授が,【校】なり【注】なりを示しておいてくれる。例えば「欲を以て其の精を竭す」はハハアでも,「以耗散其眞」はハテナじゃないですか。ちゃんと「以耗」は,林校(新校正のこと)に引く『甲乙』では「耗」を「好」に作る,と言ってくれている。「好を以て其の真を散ず」ならハハアじゃないですか。(もっとも,「以て其の真を耗散す」ではいけないと言うつもりか,どうなのかは微妙で,そこもハテナなんですが。)
こんな具合に,自分でこんなかなと読んでいって,ハテナと思ったら,【校】なり【注】なりを見て,ハハアと思えたら,紐解いたかいがあったというものだし,それでもハテナであったら,そこが現段階での自分の問題の位置なんです。別の参考書なり,先輩なりに問うべきところ。

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