面白いから,としか言いようが無い。
役に立つからなんて言う勇気は,とても無い。
役に立つ人には役立つし,役に立たない人には役立たない。
でも,ちゃんと読めば,面白いと思える人にはとても面白い。
例えば推理小説を読むのが好きで,『素問』『霊枢』を読む楽しみが分からない人がいるとしたら,どうしてそんな不思議なものが存在し得るのか,理解できない。
推理小説だと,少なくとも作者は犯人を知っている。
試されているみたいだ。その上から目線が不愉快だ。不公平だ。
『素問』『霊枢』なら,星を知っているなんぞと威張っていられる人はいない。
いや,少なくとも既にいない。
で,自分の知識と頓知で,人より先に星に目星がついたら,それは愉快でしょう。
吹聴して回りたくなる。
いやなに,正解とは限りませんがね。
5 件のコメント:
で、つまりここの読書会は、『素問』『霊枢』という推理小説を読むための、虎の巻を手に入れようと、協力し合っていう仲間というわけです。
郭靄春先生の『校注誤訳』を読んでいると、注釈が現代の日本のものどは全然違います。
江戸末期のものと合わせて読んでみると、尚更違います。
これらを読み比べて、『素問』『霊枢』を読むと、新鮮でモヤモヤが少しは晴れてくるような気がします。
“人より先に星に目星がついたら,それは愉快でしょう。”
こんな新参者の私にもこのような気持ちが芽生えてきます。
『素問』『霊枢』っておもしろい。
『校注誤訳』は,勿論『校注語訳』の誤りです。
でも,偶然ながら真実を突いている可能性も有ります。
郭靄春教授の言ったことだとしても,いつも正しいとは限らない。
前にもいったように,同時期に『黄帝内経素問校注』というのが有ります。主編は同じく郭教授なのに,経文の説明に違いが有ります。こちらは,有名な学者さん総出の共同作業だからです。主編といえども我意を通すわけにはいかない。悔しい。そこで『校注語訳』を並行して著す。どっちが正しいかは分からない。だから,ひょっとすると「誤訳」かも知れない。でも,誤りを恐れて何も言わないでは何も起こらない。
ただ、今の私には「迷宮入り事件の推理小説」になりそうな気配です(笑)。
『語訳』を『誤訳』とは、なんとお間抜けなことをしました。
すみませんでした。
“「迷宮入り事件の推理小説」”
これもまた、同感であります。
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